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【手仕事のまち越前市】守られ、継承されたまち府中と五箇地区
守られ、継承されたまち府中と五箇地区
印鑑
壮絶な戦の時代を乗り越えて
ここに、3つの印鑑がある。
織田家、豊臣家、徳川家、それぞれの所有を意味する印鑑だ。これは、五箇地区の紙漉きの元締めの役割を担った三田村家に今でも残されている貴重なもの。一体なぜ、この場所に戦国時代を駆け抜けた名だたる武将の印が揃っているのか?それは、混乱の世の中においても越前が重要な地域であることを認められ、歴代の権力者たちに必ず保護されてきた証拠である。国を動かす者たちにとって「紙」を生み出す土地は、決して蔑ろにはできない場所だったのだ。
越前市今立にある大瀧神社(大滝寺)は、鎌倉時代に和紙の製造や販売について中央から特権を与えられた「紙座」が置かれ、五箇地区(不老・大滝・岩本・新在家・定友)を中心に大量の和紙を生産されたと言われている。当時の「紙」は、現代で言うところの最新の「デバイス」であった。紙には多くの機能や重要な情報が記載され、紙がなければ政治を動かすことはできなかった。そのため、紙の生産においては量はもちろん質も重要視され、産地は中央からの依頼に応えられるだけの技術を備えている必要があったのである。特に、原料の正確な配合や透かしの技術など、越前和紙は全国的にもレベルが高く秀でていた。
越前和紙は君主によって命じられ生産が促されてきた。南北朝時代には足利一派の流れを引く越前守護である斯波高経が、現・三田村家の中興となる三田村掃部に命じて、「御教書紙」を漉かせて献上させた記録が残されている。この紙は「奉書」と呼ばれ、将軍から下された命を書き記すための特別な紙として使われた。奉書は原料の配合が厳しく決められており、選ばれた工房でのみ生産された。また、政治に関わる重要書類となるため、守秘義務も徹底して管理されたという。斯波氏に続く朝倉氏も一乗谷に城を構えながら、三田村家を「御用紙職」に命じ、朝倉孝景によって大滝寺は寺領を安堵(保証)されるなど、格別の措置が取られた。
府中の三人衆
名君が見守り続けた府中城と街
室町幕府が倒れ、朝倉氏が滅亡すると、天下統一のための戦は容赦なく越前の里にも及んだ。1575年(天正3年)、織田信長は一向一揆制圧のため越前を経略し、その業火はありとあらゆるまちを焼き尽くした。この時、越前和紙の「神郷」として祀られていた大瀧寺も、信長の家臣である武将・滝川一益によって社殿を失っている。
しかし、このまちが消失することはなかった。
織田信長の襲来後、新しい領主として府中に入った織田氏の家臣である佐々成政・前田利家・不破光治は、後の「府中三人衆」として名を馳せることとなる。
特に、前田利家は府中に着任の際に府中城を築城し、城主を務めた。その後、加賀百万石の加賀藩の「藩祖」として世に知られるようになったのである。府中城は、現在の越前市役所一帯が跡地として定められ、当時の石垣も発掘されている。また、府中城から南西にある高瀬の宝円寺は利家ゆかりの寺として知られ、墓地には前田利家の両親の供養塔がある。
信長が本能寺の変によって討たれ、統治者が豊臣秀吉に代わっても、家臣である丹羽長秀が三田村家に引き続き御用紙職の特権を与えた。
さらに、秀吉に代わる徳川幕府に至っても、福井藩の藩主となった結城秀康が早々に府中に立ち寄り、重要な家臣であった本多富正を府中城主として命じた。本多家は府中の町人にとっても非常に信頼の篤い城主だったようで、江戸幕府終焉の際に本多家が貴族として迎え入れられなかったことを不服に思った町民による騒動が勃発したほどである。
本多家が城主を務めた時代ももちろん、和紙の生産においては変わらず特権が与えられ、福井藩だけでなく江戸幕府はもちろん尾張藩や大社寺などにも越前和紙を納めていた。
三田村家の末裔
たしかな技術、柔軟性、対応力が未来をつなぐ
戦の火が近くまで及んでも、激しく入れ替わる時の権力者によって保護されてきた越前府中。代々五箇地区の元締めを務めてきた三田村家の末裔である、有限会社越前製紙工場の三田村さんはこのように振り返る。
「越前和紙のような重要な産地が集積していたからこそ、越前市はさまざまな勢力によって焼き払われずに残ってきたのだと思います。全国的に和紙の産地はあったはずですが、越前和紙が選ばれていたのは上層部が使う紙の配合を守って作ることができる技術と、守秘義務の管理体制がしっかりと取れていたからだと聞いています。誰かが情報を漏らしたり、偽物を作ったりという罪を犯した時は、村八分どころではなかったと言われています。それだけ、まち全体が一丸となって外からの依頼に応えてきたんでしょうね」
また、三田村家に今でも残される数々の歴史的遺品も、非常に高い価値のあるものばかりだ。
「当時の屋敷の図面を見ると、お殿様をお迎えするための部屋や馬場、風呂場まで作られていたようです。図面そのものも、お殿様が来られる前、護衛のために藩や幕府に提出していたそうですよ。権力者の保護によって、守られる部分と振り回される部分があったと思います。でも、そういったさまざまな局面を乗り越えてきたのは、この産地の職人たちがみんながそれぞれ切磋琢磨して時代に即した紙を作り続けて生き延びてきたからです。こうして長く続く伝統の中で、先祖たちの柔軟性と対応力を感じますね」
多くの為政者が府中城に入りながらもまちが荒らされなかったのは、コツコツと受け継がれたたしかな技術を要した越前が、高く評価されていたからに他ならない。 現在も、その遺伝子を受け継ぐまちの市民が越前市を守り、越前和紙の工房では職人が製作を続け、日々伝統の継承と新しい実験が繰り返されている。
▼有限会社越前製紙場(三田村氏庭園)
越前叡智(えちぜんえいち) ~Proposing a new tourism, a journey of wisdom.~ 1500年も脈々と先人たちの技と心を受け継ぐまち。 いにしえの王が治めた「越の国」の入口、越前。 かつて日本海の向こうから最先端の技術と文化が真っ先に流入し、日本の奥深いものづくりの起源となった、叡智の集積地。 土地の自然と共生する伝統的な産業やここでくらす人々の中に、人類が次の1000年へ携えていきたい普遍の知恵が息づいています。 いまこの地で、国境や時空を越えて交流することで生まれる未来があります。 光を見つける新しい探究の旅。 ようこそ、越前へ。