【高知県四万十市】土佐の小京都中村
今から約550余年前、応仁の乱を機に、前関白一條教房公は中村(現四万十市)へ下向し、中村に居を構えました。一條公は京の都にちなんで、社寺の創建や市街地の発展の礎をつくりました。現在も多くの文化を一條公がもたらし、今日にも京都にちなんだ地名やゆかりの神社が多く残っており、これが土佐の小京都と呼ばれています。
土佐の小京都って?
今から約550余年前、応仁の乱を機に、前関白一條教房公は中村(現四万十市)へ下向し、中村に居を構えました。一條公は京の都にちなんで、社寺の創建や市街地の発展の礎をつくりました。
京都から多くの文化をもたらした一條公の下向は地域の誇りを育て、衹園、京町、鴨川、東山など京都にちなんだ地名やゆかりの神社が多く残っています。このように京都とのつながりを大切にした地域文化が息づいていることから、四万十市中村地域は「土佐の小京都」と呼ばれています。市街地は地震や水害など自然災害の多い地域で、古い建物はほとんど残っていませんが、現在でも中世から近世にかけて形づくられた格子状の区画が残っています。
※関白とは…公家の最高位で天皇を補佐する官職。
土佐一條家の歴史
土佐一條家は、一條教房公が応仁2年(1468年)に所領であった高知県西部の幡多荘(現四万十市)に下向したことに始まります。領主自らが荘園を直接経営し、四万十川流域の物流を掌握し、九州と関西を繋ぐ交易地として栄える基礎を築きました。
教房の息子房家は、京都に戻らず在地領主となって幡多荘を拡大させ、土佐一條氏の全盛時代をつくったと言われています。
その後、天正2年(1574年)に長宗我部元親によって豊後に追われるまで、土佐一條家は房冬、房基、兼定と106年にわたって、公家大名としてこの地を治めました。
一條家を感じる史跡
玉姫の墓
玉姫は、伏見宮邦高親王王女で、一條房冬の夫人です。大永元年(1521年)降嫁のため中村に下向しました。玉姫が嫁いだ6月22日と、亡くなった8月22日にちなみ、地元商店街婦人部では毎月22日を玉姫様の日とするなど今でも市民に親しまれています。
不破八幡宮
文明年間(1469~1487年)に、一條氏が京都の石清水八幡宮から観請して幡多の総鎖守とした神社です。本殿は室町時代の建築様式が残る高知県最古の神社建築で、国の重要文化財に指定されています。
一條神社
文久2年(1862年)、中村御所跡と伝わる一画に、中村の文化経済の発展に尽くした土佐一條家の遺徳を偲ぶ有志によって建立された神社です。境内にはお化粧の井戸、咲かずの藤など一條氏ゆかりの旧跡が残されています。
四万十市郷土博物館「しろっと」
中村城跡の一画に建つ城の形をした博物館。天守閣風の館からは、四万十川、東山を望み、市街地を一望することができます。四万十市の自然、文化に加えて、土佐一條家、中村山内家、幕末の志士、中村出身の社会主義者 幸徳秋水などまちの歴史に関する貴重な資料を展示しています。
小京都を感じる行事や祭事
「土佐一條公家行列藤まつり(5月)」、「大文字の送り火(旧暦7月16日)」、「不破八幡宮大祭(9月)」、「一條大祭・御神火奉納行列(11月)」など季節によって京都文化を感じさせる行事や祭事も行われます。
四万十市についてもっと知りたい方は、下記ご参考ください。
四万十市観光協会公式サイト: https://www.shimanto-kankou.com/
(四万十市の観光についてのご相談、パンフレットのご送付などお気軽にお問合せ下さい)
高知県幡多地域は四国の西南端に位置し、東は土佐湾、西は豊後水道に面する太平洋に突き出た半島で、四万十市、宿毛市、土佐清水市、黒潮町、大月町、三原村の3市2町1村から構成されています。 全国的に有名な四万十川や足摺岬をはじめ、沿岸を流れる黒潮の恵み、全国でもトップの森林面積を誇る山の恵み豊かな自然大国です。