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地獄と呼ばれた花を救う!若き挑戦者の想いに触れる
滋賀県草津市やその周辺の地域でのみ栽培されてきた「あおばな」。その栽培の難しさから「地獄花」と呼ばれることも。古くより受け継がれてきたその花を今も守り、さらに発展させ続ける若者を紹介します。
大地の恵みのすばらしさを教えてくれる「あおばな」
あおばなとは、ツユクサの一種で、一年の最も暑くなる7~8月の時期にかけて、鮮やかなコバルトブルーの花を咲かせます。
江戸時代ごろから、友禅染や絞り染め、浮世絵等に用いられる絵具の原料として栽培され、昭和56年には草津市の花に制定されました。
日の出とともにつぼみが開く
朝早く、日が昇るとともにあおばなの蕾は開いていきます。
大きなもので5尺(150cm)ほどにもなるあおばなの垣根は、やがてぽつぽつとした青色の小さな花で覆われていきます。
一つ一つ、黄色い花粉を入れないように丁寧に摘んでいきますが、不思議なことに前の日に花は殆ど摘んだはずなのに次の日には元通り、どこからかまた花が咲いています。
「地獄花」と呼ばれて
あおばな農家は1か月以上、雨の日も風の日も毎日目に付く青を追いかける日々が続くのです。
夏場の強い日差しの元、あおばなは毎日咲いて昼までに摘み切らないといけません。
やっとの思いで摘み終わったあとは、加工の為に、力いっぱい手で絞る作業が待っています。
その作業の大変さから、あおばなはいつしか「地獄花」と呼ばれるようになってしまいました。
友禅染の下絵描きに最適
その名の通り、美しい青色を持つあおばな。「これで染物を作るんだ」とよく勘違いされますが、
実は水に溶けやすいあおばなの色素は染物には向いていません。
しかし、水に晒すと消える特性を逆手に取り、友禅染の生地に柄をつける前の下絵描きに重宝されてきたのです。
今ではたった一軒に
そして、あおばなの栽培は、友禅染を使った着物の生産とともに繁栄します。
最盛期にはたくさんのあおばな農家が軒を並べ、その農家の中にはあおばなで家を建てたと言う人もいました。
ですが、時代が流れると着物の需要は減り、青花紙の産業は衰退していきます。
そして科学的にあおばなの特性を再現した化学青花の登場によって、琵琶湖のほとりを彩ったあおばな畑はほとんどなくなってしまいました。 現在、伝統的なあおばな紙の生産をしている農家はたった1軒になり、その後継ぎはいません。
あおばなを守りたい。
「昔は沢山咲いていたのになあ。」
そんな、昔話のように語られるようになってしまったあおばな。
市の花だというのに、実際に咲いているところを見たこともない人が殆どです。
数百年もの間、人の手によって育てられてきたあおばなは産業植物であり、自生すると元の形に戻ってしまいます。
ですが、いくら頑張ってあおばなを育てても、それを供給する先は僅かしかありません。
あおばなを救うためには、その産業自体の復興が求められるのです。
そこで立ち上がった一人の若者がいます。
その名は峯松孝好さん。
ひょんなことから、あおばなを知り、その次の年には、その長年の功績から黄綬褒章を賜るまでに至ったあおばな農家、当時89歳の(故)中村繁男さんの元であおばなの栽培方法と、その文化を学ばれました。
そこから2年間、あおばなの季節にはそのお家に毎日足を運び、その家族と一緒にあおばなを摘む生活を続け、2019年には農地を取得。
あおばな農家として農業未経験から就農を果たしたのです。
お師匠さんである繁男さんが亡くなった今、生前の「あおばなを任せた」との言葉を胸に抱き、その栽培、研究、文化の普及に取り組み続けられています。
現在では、草津市において最もあおばなの花を摘む事業者となられました。
あおばなの未来を担う
峯松さんは現在、特定非営利法人青花製彩を立ち上げ、あおばなの継承とさらなる活用に奔走されています。
峯松さんの畑には、多くの人が集い、あおばなを摘みます。
観光客、地元の農家さん、朝支度を終えた主婦、シルバー世代、障がいを持った方、そして何より夏休みの子供たち・・・
手に取った青い花びらは、きっとこの先忘れられることはないでしょう。
琵琶湖のほとり、夏の日差しの中で沢山の人が青を追いかける姿が、県内有数の特別な景観となることは想像に容易いものです。
忘れられた花が、もう一度市民の宝物になってくれれば。
峯松さんはそう語ります。
地獄と呼ばれた花が、天国と呼ばれる日は、案外遠くないのかもしれません。
【お問い合わせ先】
NPO法人青花製彩
〒525-0032滋賀県草津市大路1丁目18番地32号
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