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【手仕事のまち越前市】くにを、未来へと「継ぐ」継体天皇
時と国を継ぐ王をたどって
男大迹王
越前市が、かつては大国の玄関口であり、時代の最先端技術の集積地であったことを知るには、ある一人の「大王」をたどることになる。
時は約1500年前、6世紀頃。
この地は、現在の敦賀から新潟までに連なる大国「越国(こしのくに)」の中の一つの国であった。大和朝廷の都(奈良・大阪にわたる地域)に向かって開かれる越国の玄関口として、越国の前方にある国「越前国(えちぜんのくに)」と呼ばれていた。
この越前国を治めていたのが、男大迹王(おおとのおう)だ。謎に包まれながらも『日本書紀』にもその名が登場し、後に大和朝廷へと赴いて「継体天皇」となった大王である。
彼が成し遂げた「くにづくり」の基礎は越前の地に脈々と受け継がれ、時を経てなおその精神を受け継ぐ人々がこのまちに息づいている。
早速、彼が残した足跡をたどりながら、一体何を残していったのかを探してみることにしよう。
産業の奨励
3つの「くにづくり」の基礎
越前国を治めた男大迹王は、戦を逃れるため母親の振媛(ふるひめ)に連れられて、親元のある越前に来たといわれている。当時は大和朝廷の天皇を中心に政治が敷かれ、少しずつ律令国家としての日本の国の形が創生されていた。
戦も多く政情の安定しない世の中で、越前に暮らし、時に各地方へと赴きながら見聞を広めたという彼は、どのように越前国を治めていったのだろうか?
まず取り掛かったのが、「治水事業」である。越前平野は大きな湖沼が点在し、九頭竜川、日野川、足羽川が流れ込む一大湿地帯だった。王は干拓や埋め立てによって治水工事を行い、堤防や用水・排水を整備するなどインフラの基礎を整えたことにより、稲作による米の生産が飛躍的に拡大し、一大沃地に変わったのである。
越前市粟田部地区にある岡太神社に1400年以上続く伝統行事「迹王(どお)の餅」は、大王が洪水を起こす河川を改修したことに感謝の意を伝えるために村人が餅を献上したところ、大王もまた村人に餅を与えたという逸話から始まったとされ、まさにその功績を伝えるものとなっている。
次に行ったのが、「産業の奨励」である。漆や雁皮などの原料が揃う河和田や今立の地域では、すでに漆器や和紙の生産が始まっており、それらをさらに後押しすることで国の産業とした。
「味真野に立ち寄った際、壊れた冠を地元の塗師が漆によって修理した美しい出来栄えに感銘し、漆器づくりを奨励した」という言い伝えも残されており、職人たちの間でもよく知られていることは興味深い。
これらの産業は当時の最先端技術であり、都に近い越前国は重要視される地域だったのである。
そして、「海外交易」にも積極的に取り組んだ。当時、朝鮮半島には百済、新羅、加羅、任那などの国が栄えていたが、中でも百済との交流が強く、百済の都・扶餘(ぷよ)には越前の伝統工芸のルーツがあるともいわれている。
越前と百済との関係を感じさせる逸話が残るのが、越前市千合谷町にある解雷ヶ清水(けらがしょうず)だ。この清水は干ばつの際に百済の王女が神仏に念じて湧き出た霊水だという伝承があり、現在も地元の人々に親しまれている。
「くにづくり」の手腕
「天皇」に選出された王と街の記憶
天皇の直系ではなく、地方の国の統治者であった男大迹王が、朝廷に天皇として迎えられるのは極めて異例だったと考えられる。なぜ、彼が天皇として選ばれたのだろう?
さまざまな理由の中でも、大きく二つの理由を上げたい。
一つの理由は、男大迹王の系譜にある。彼の父は天皇に通じる名門の出であり、母は越国の豪族の一門であった。506年に武烈天皇が後継者を決めずに亡くなったことをきっかけに、彼の系譜に加えて、越前国で積み上げた政治の功績を評価されることとなり、大和政権を支える大伴氏や物部氏などの多くの有力豪族に推され、齢50過ぎにして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位した。
もう一つの理由は、男大迹王が越前国で成し遂げた「くにづくり」の手腕である。のちの律令時代に彼が治めた越前国が格の高い「上国」として区分されたことからもわかるように、治水事業や産業奨励、海外交易によってその基礎を作ったといっても過言ではないだろう。
中でも、室町時代に書かれた能舞『花筐(はながたみ)』は世阿弥の作といわれ、この味真野の地を舞台として、即位に際して継体天皇と恋人である照日との邂逅が描かれている。王が没して800年ほども時が経った室町の時代にまで、土地の人々が彼の姿を大切に語り継いだ証拠にほかならない。
また、『花筐』にも描かれた樹齢600年の薄墨桜が植わる「花筐公園」や、継体天皇をはじめとする5人の王を祀り継体天皇が学問所と文庫を置いたことが始まりとされている「五皇神社」など、そこかしこに彼を大事に守ろうとする越前の人々の思いを感じることができる。
未来へのメッセージ
越前の奥に潜む「光」を見つける旅へ
継体天皇がくにづくりに邁進して約1500年後、令和の時代にもその精神を受け継ごうとしている人々がいる。「こしの都クラブ」を主宰する丹南ケーブルテレビの代表取締役社長・吉田登喜男さんは、こう話す。
「僕が継体天皇を知るきっかけになったのは、番組制作を通じて伝統工芸のルーツをたどったことでした。実際に百済の地へも赴き、越前との多くのつながりを感じました。それによって、彼から見た越前の素晴らしさや深さを知ることができた。こういった歴史や文化を紐解くことは地道なことだし、流行とは異なるものかもしれません。しかし、その土地の奥の光を観ることこそが本当の『観光』だと僕は考えています」
目先の華々しさを追うのではなく、時代を経てなお土地に根付き続ける、地域の奥の方にかすかに灯る真の「光」に目を向ける。それは、1500年前に継体天皇が自ら越前国に向けた視線と重なるようだ。
「伝統工芸がこんなにもたくさん残されている地域は、平和だったことの象徴なんですよ。戦によって根絶やしにされた文化は多くありますから。今ある物事の文脈や背景を知識として知った上で越前市を歩くことで、他の国のことにも思いを馳せることができる。『なぜ続いているんだろう?』と考えながらゆっくりまちを歩いてみてほしいですね」
越前市をはじめとする各地で語り継がれてきた継体大王の物語は、彼の名前に込められた「体(国)を継ぐ」という未来へのメッセージだ。越前市のまちの始まりと、時代に生きた人々が重ねた時間を、どのように受け取り、また渡していくかは、私たちに託されている。
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あらすじ
10継体天皇『記紀』によれば、継体天皇は第15代応神天皇の5世皇孫でもともとは越前国の豪族でした。本来は皇位を継ぐ立場ではありませんでしたが、遠縁にあたる第25代武烈天皇が後 嗣を残さずして崩御したため、大伴氏や物部氏などの推戴を受け、古墳時代末期の507年に河内国樟葉宮において即位しました。 即位前は男大迹(ヲホド)王と呼ばれていましたが、皇子時代には越前漆器にまつわる逸話が残っています。ある時、皇子はこわれた冠の修理を片山集落(現在の福井県鯖江市)の塗師に命じました。塗師は、冠を漆で修理するとともに黒塗りの椀を献上したところ、皇子はその見事な出来栄えにいたく感動し、片山集落で漆器づくりを行うよう奨励し ました。これが今日の越前漆器の始まりと伝えられています。
越前叡智(えちぜんえいち) ~Proposing a new tourism, a journey of wisdom.~ 1500年も脈々と先人たちの技と心を受け継ぐまち。 いにしえの王が治めた「越の国」の入口、越前。 かつて日本海の向こうから最先端の技術と文化が真っ先に流入し、日本の奥深いものづくりの起源となった、叡智の集積地。 土地の自然と共生する伝統的な産業やここでくらす人々の中に、人類が次の1000年へ携えていきたい普遍の知恵が息づいています。 いまこの地で、国境や時空を越えて交流することで生まれる未来があります。 光を見つける新しい探究の旅。 ようこそ、越前へ。