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【手仕事のまち越前市】川上御前、母なる紙の神様
1500年の歴史を持つ越前和紙。越前で漉かれた最古の紙として残っているのは、正倉院の越前国正税帳(730年 天平2年)である。この紙は近年の調査によれば、楮が主原料の溜め漉き(一度だけ原料の入った水を汲み込み、簀桁を揺らして水を抜く紙漉きの手法)で、質が高いという評価が示されている。
「紙」の神様がいる土地
紙漉きに大事なものは、清らかな水。越前和紙の里である越前市五箇地区(不老・大滝・岩本・新在家・定友の5つの集落を合わせた地区)は、岡本川(おかもとがわ)という清流を中心に和紙工房が建ち並んでいる。越前和紙の産地は他の紙漉きの産地と異なり、清流に沿って工房が広く点在するのではなく、谷合の地域の中に集積しているのだ。この岡本川の上流、大滝地区には「紙の神様」をお祀りしている岡太神社・大瀧神社がある。
伝統工芸の技術が1500年も続く背景には、職人たちの「心」を支える「神様」の存在があった。その名は「川上御前」。女性の神様である。川上御前の伝説は、1500年前にさかのぼる。岡本川の上流に一人の女性が現れ、田畑の少ない五箇地区の土地に紙漉きの技術を伝えたと言われ、以来、岡太神社は川上御前を紙祖神としてお祀りしているのである。
奥の院
職人にも、地域にも、なくてはならない絆の神
大滝地区の門の代わりともなっている岡太神社・大瀧神社の大きな鳥居をくぐり、いくつもの製紙工房を通り過ぎて奥へと進んでいくと、川上御前の神体山である権現山がある。山のふもとには大瀧神社のものも兼ねた岡太神社の里宮が建ち、頂上にのぼると奥の院がある。
岡太神社は926年(延長4年)に編纂された「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」にも記載されており、その歴史の長さを物語っている。また、江戸時代後期の社殿建築の粋を感じられる里宮は1843年(天保14年)に再建されており、永平寺の勅使門を手がけた大久保勘左衛門の建築とされる。拝殿の側面にまわると、細やかで壮麗な彫刻が、見る者を圧倒する。1984年(昭和59年)に国の重要文化財に指定された大変貴重な建物でもある。
さらに、境内は杉、桜、ブナ、イチョウなどの大木が群生しており、まるで結界を張るかのように天高くそびえ立ち、神聖な空気を保ち続けている。
川上御前への感謝を伝える祭礼は、1500年もの長い間、職人たちとその家族、そして地域の住民によって今なお連綿と受け継がれている。33年ごとに行われる「式年大祭」(御開帳)、50年に一度の「御神忌」(中開帳)、毎年5月に行われる春祭り「神と紙の祭り」は県の無形民俗文化財に指定されている。職人たちの精神性を守るものとして祭礼を粛々と受け継ぐことができるからこそ、1500年という途方もない時間を乗り越えてきたのだと、職人たちは口を揃える。
五箇地区の和紙の工房では川上御前の「稚児」の姿をした御神体の坐像を神棚にお祀りして、その下で和紙の生産に励んでいる。紙漉きに従事する人々が川上御前から得ている精神的な安心感は、その坐像への親しみにあふれるエピソードからもうかがい知れる。例えば、幕府への大事な紙を納める際、道中の安全を願って川上御前の坐像を連れ立ったり、明治時代に紙漉き職人の7人が紙幣開発のために東京の大蔵省抄紙部へ招かれた際にも川上御前の坐像を持参し、研究所の部屋に飾っていたという。職人による手づくりの川上御前の表情はとても優しく、眺めているとどこかほっとするような雰囲気がある。
▼岡太神社・大瀧神社
https://www.echizen-tourism.jp/travel_echizen/visit_detail/36
和紙職人
母なる目に見守られ、和紙に心を込めて
川上御前が女性の神様であることと同時に、紙漉き職人の多くを女性が占めていることも忘れてはならない。岩野平三郎製紙所の四代目を受け継ぐ和紙職人の岩野麻貴子さんは、幼い頃から馴染みの深いこの神様を親しみを込めて振り返る。
「私が物心ついた時から、うちの工房で紙を漉いている職人の7~8割は女性でした。近所から通う人も多かったので、顔見知りの方がほとんどでした。小学校に行けば、川上御前のことを授業の中で学んでいましたし、お祭りがあれば家族や親戚総出で参加していました。広い神社の境内は格好の遊び場で、本当によく通っていましたね。一年の初めには必ず川上御前に頭を下げて仕事を開始します。私たちの仕事にとって、彼女はなくてはならない存在。川上御前がいなければ、この仕事は成り立たないとさえ感じています」
心を込めて和紙を漉く。それは簡単なことではない。時代の荒波によって、和紙職人たちも苦境に立たされることは何度もあった。しかし、いつ何時もどこでも、川上御前が見守ってくれているという思いが、職人たちの心の力強い支えとなっていることがひしひしと伝わってくる。越前和紙を使う前に、この神様のことに思いを馳せれば、遠く離れていても越前の職人たちと心を通わせることができるはずだ。
▼岩野平三郎製紙所
越前叡智(えちぜんえいち) ~Proposing a new tourism, a journey of wisdom.~ 1500年も脈々と先人たちの技と心を受け継ぐまち。 いにしえの王が治めた「越の国」の入口、越前。 かつて日本海の向こうから最先端の技術と文化が真っ先に流入し、日本の奥深いものづくりの起源となった、叡智の集積地。 土地の自然と共生する伝統的な産業やここでくらす人々の中に、人類が次の1000年へ携えていきたい普遍の知恵が息づいています。 いまこの地で、国境や時空を越えて交流することで生まれる未来があります。 光を見つける新しい探究の旅。 ようこそ、越前へ。