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【手仕事のまち越前市】「天皇の料理番」秋山徳蔵の知られざる姿
真心と信念を貫いた「天皇の料理番」秋山徳蔵の知られざる姿とは
天皇の料理番
『天皇の料理番』といえば、これまで3度もドラマ化された直木賞作家・杉森久英原作の名作である。
主人公の秋山徳蔵は越前市出身の料理人。単身ヨーロッパで料理修行ののち、28歳で宮内省大膳職厨司長に抜擢され、「天皇の料理番」とも呼ばれた。また、大正12年に名著『仏蘭西料理全書』を刊行するなど、近代日本における西洋料理発展の礎を築いた人物でもある。
南北に伸びる街道はすでに室町時代には造られていたと考えられているが、この他にも、南西に位置する広瀬から中山峠を越えて河野浦をつなぐ「馬借街道」や、粟田部から一乗谷を結ぶ「朝倉街道」も重要なラインとして流通を支えてきた。
58年もの間、天皇の料理番として徳蔵は何を想い、何を考えながら仕えてきたのだろうか。当時の時代背景や史実と重ね合わせながら、彼の人物象に迫ってみたい。
カツレツの味
西洋料理と出会ったガキ大将
秋山徳蔵について語っていただくのは越前市の学芸員 齋藤秀一さん。2014年に越前市武生公会堂記念館での「秋山徳蔵展」の開催をきっかけに、徳蔵について調査を続けてきた人物だ。
秋山徳蔵は、1888(明治21)年、福井県今立郡村国村(現越前市村国)の高森家次男として生まれる。小説では徳蔵の実家は「料理屋」と書かれているが、そのような事実はなく、大地主として知られる地元の旧家だった。「徳蔵は、10歳のときには坊主になりたいと言い出し近くの興禅寺に入るものの、お供えの金平糖を食べたり、お賽銭をとって買い食いしたりなど、自由奔放で1年も経たないうちに破門となるんです。幼い頃からかなりのやんちゃ坊主だったようですね」齋藤さんいわく、徳蔵の性格は大人になってからのエピソードにも現れているそうだ。
運命の出会いは徳蔵が15歳の時に訪れる。鯖江歩兵第三十六連隊の兵舎近くにある仕出し料理屋を営む高木家へ養子に入ることになったのだ。ある日、注文の料理を納めるため連隊の将校集会場に出かけた徳蔵は、今まで見たこともない西洋料理に目を奪われる。一口食べさせてもらったカツレツの味は、忘れられないものとなり、それ以降西洋料理への憧れを強くしていく。
パリでの修行
差別をもはねのけた負けん気の強さ
徳蔵は料理人になる道を模索し、本格的に西洋料理を学ぶため武生から東京へ移る。築地精養軒や東洋軒で修行を続けるなかで、次第に気持ちは海外へ。20歳の時に父親の援助を得て、ついにパリでのフランス料理の修業を叶えるのである。
パリでは最初に、一流ホテルの見習いとして就職するものの、徳蔵を待ち受けていたのは激しい差別といじめ。しかし、徳蔵はとにかく負けん気が強かったのと、頭の回転の速さから、次第に周りの料理人たちから一目置かれるようになっていった。
「徳蔵の生き様を調べていると、目標を叶えるためなら歯を食いしばる信念の強さを持っている人だということがよくわかります。この後、徳蔵は当時フランス料理の最高峰・リッツホテルで働くなど、本場パリで一流の料理人としてのぼりつめていきます」
パリで料理人としての社会的地位を確立していった徳蔵だが、1914(大正3)年、大正天皇が主催する御大典の洋式宴会のため呼ばれ帰国。新しく設けられた洋食部の責任者として、初代宮内省大膳職主厨長となり、以来大正天皇、昭和天皇と半世紀以上にわたり皇室のために腕をふるい続けるのである。
真心
すべては天皇陛下のために
天皇の料理番となった徳蔵はどんな料理をつくっていたのだろうか。
「料理番といっても、天皇に直接会って話す機会はありません。天皇の食の好みは厨房に下げられてくるお膳を見て判断するしかなく、食欲のなさそうな時は、野菜の栄養たっぷりのスープご飯にするなど、調理を工夫していたそうです」
徳蔵の人柄がわかるこんなエピソードも齋藤さんは語ってくれた。昭和天皇は、朝食は一貫して洋式だったものの、次第に和食を好むようになったそう。フランス料理が専門だった徳蔵は、陛下に本格的な和食を召し上がっていただきたいとの思いから、和食の名店に頼み込んで、板前修業に出向いたこともあったそうだ。
また、宮中ではつくった料理を天皇の食卓に運ぶまでに、どうしても料理が冷めてしまう。そこで、徳蔵は、宮中の慣例を破って天皇の目の前で料理する機会を設け、揚げたての天ぷらや握りたての寿司を出したこともあった。
皇室に仕えるようになった徳蔵は自分のことをこう語っている。
「私は人間としても、短気で、かんしゃく持ちで、わがままで、しようのないやつだと思っている。しかし、陛下のお食事をお作りするごとに、真心を捧げつくしていること、これだけは世の中の誰にもヒケを取るものではない。私が自信を持っていい得ることは、これだけである」
徳蔵の真心は料理だけではない。 食卓を飾るための盆景や氷の彫刻、メニューに描かれた日本画やカリグラフィーの字に至るまで独学で学び、すべては天皇陛下のためにと食卓を彩る工夫をこらしてきたのだ。
おりょうり京町萬谷
宮中の晩餐メニューを再現
2014年、秋山徳蔵没後40年の機会に徳蔵がつくった昭和天皇ご成婚時の晩餐メニューやある日の昼食や夕食が再現された。料理を手がけたのは、越前市内にある料亭「おりょうり京町萬谷」。
当時のことを萬谷の2代目、萬谷聡さんはこう語る。
「秋山徳蔵が手がけたメニュー表は残されているものの、具体的なレシピはありませんでした。そのため、当時の資料や料理法を調べるため県外にも足を運ぶなど、簡単な道のりではありませんでしたね」
▲萬谷さん
特に難しかったのは、魚料理に使われたソースやデザートだったそう。材料から想像力を働かせ、手探りの状態で試作を重ねた末、完成した料理は大きな反響を呼んだ。
現在も萬谷では秋山徳蔵の偉業を称え、「秋山徳蔵トリビュートセレクション」と題して、人気の煮さば寿司や、宮中晩餐会で出された「牛フィレ肉の元帥風」をアレンジした「元帥風ヒレカツ」など、福井の食材を使用したランチやお弁当を味わうことができる(要予約)。
「大正時代というと今から100年ほど前にもかかわらず、秋山徳蔵は鶏肉につめものをしてトリュフをかけたり、ザリガニのスープを研究したりなど、大変凝った料理を考案していました。一方で天皇陛下が召し上がる普段の料理は素朴な家庭の味も取り入れていて、美味しいだけではなく身体のことを考えていることがわかります。徳蔵のことを調べるたびに彼の料理への探究心と陛下へのおもてなしの心を感じますね」
秋山徳蔵の人生は苦労も多かったはずだ。しかし、やんちゃで負けん気が強い一人の男性が西洋料理に心酔し、天皇陛下のためだけに全身全霊を傾けたまっすぐな生き様は、これからも多くの人々を魅了することだろう。
▼おりょうり京町萬谷
越前叡智(えちぜんえいち) ~Proposing a new tourism, a journey of wisdom.~ 1500年も脈々と先人たちの技と心を受け継ぐまち。 いにしえの王が治めた「越の国」の入口、越前。 かつて日本海の向こうから最先端の技術と文化が真っ先に流入し、日本の奥深いものづくりの起源となった、叡智の集積地。 土地の自然と共生する伝統的な産業やここでくらす人々の中に、人類が次の1000年へ携えていきたい普遍の知恵が息づいています。 いまこの地で、国境や時空を越えて交流することで生まれる未来があります。 光を見つける新しい探究の旅。 ようこそ、越前へ。