富岡製糸場|歴史の痕跡を辿る旅。世界遺産で出会う3つのストーリー
富岡製糸場をただ歩くだけでは見逃してしまう“歴史の痕跡”を3つ紹介します。世界遺産であるこの製糸場で、工女や技術者たちが残した暮らしの証を辿り、過去へタイムスリップしたような体験へご案内します。
まず知っておきたい富岡製糸場の基本

富岡製糸場は1872年に操業を開始した、我が国初の本格的な官営模範工場です。日本の絹産業を近代化へ導き、輸出産業としての生糸発展に大きく貢献しました。2014年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録され、現在も当時の面影を保つ建物群が残ります。
場内には、東置繭所・繰糸所・女工館・旧寄宿舎など、創業期から使われた主要構造物が並び、施設全体を辿ると製糸場の成り立ちや操業当時の雰囲気を体感できます。
見学方法は自由見学が基本ですが、音声ガイドやガイドによる案内ツアー(所要約40~60分)も用意されており、建物の役割や歴史的背景をより深く理解できます。自由見学の場合の滞在時間はおおよそ1~2時間が目安。各施設をじっくり観察しながら歩けば、さらに時間は伸びるでしょう。
ガイド付き見学ルートは広く、世界遺産の歴史・建物・操業の痕跡を立体的に理解する上でも、入口付近の全体図を見ながら歩くと、よりスムーズに回れます。
富岡製糸場は、明治時代の日本の近代化を支えた重要な産業遺産です。場内を歩くと、当時ここで働いていた人々の暮らしや営みを感じられる “痕跡” が今も残っています。
この記事では、製糸場で働いていた人々の生活や歴史をより深く想像しながら、巡るための3つの必見ポイントをご紹介します。初めて訪れる方でも背景をイメージしやすく、訪問がより印象的なものになるはずです。
工女たちの暮らし:若い女性が富岡で過ごした日々とは

画像提供 富岡市
まず、注目したいのは工女(こうじょ)さんたちの暮らしです。工女とは、繭から生糸をつくる作業を担当していた若い女性たちのこと。多くは10代半ば〜20代前半で、まだ若いうちから親元を離れて製糸場内の寮に住み込みながら働いていました。
比較的裕福な家庭や教育水準の高い家庭から入場した工女が多かったとされており、女性が外で活躍することが珍しかった時代に、教養の高さや地位の高さをもって仕事をするという女性達が全国から集まりました。

工女たちが共同生活をしていた寄宿舎
工女たちは、年上の教育係の指導を受けながら、日常生活を送っていました。また、生糸をとる作業の基礎や決まりについても教育係から学んだといいます。週に一日、毎週日曜日の休日以外は仲間とともに共同生活を送っていました。
一日の勤務時間は、7時間45分*。現代とほぼ同じ長さです。仕事を終えたあとには、ささやかな“アフターファイブ”もあったのでしょう。寮でお風呂に入ったり食事をしたりしながら、どんな会話を交わしていたのか—当時の光景が自然と想像が膨らみます。
*勤務時間は各時代によって、異なります。

「富岡日記」というタイトルの回想録が残されています。これは、長野県松代出身の和田英という工女が、富岡製糸場で過ごした明治6年頃の生活を綴ったものです。生糸づくりに関することから食事、お化粧といった日常生活に関することまで細かく記録されています。
『富岡日記』には、夜のお手洗いへの道中についても書かれていました。連れ合ってお手洗いまで歩いていたという記録が残っています。それはまるで、肝試しのよう。時には、火の玉のようなものを廊下で見たと悲鳴を上げて部屋まで戻ったこともあったようです。時代が違っても、夜の怖さは同じですね。
明治6年当時、製糸場で働いていた工女は556人いたとされています。そのにぎやかな雰囲気は、まるで中学校や高校のようだったのかもしれません。
また、工女たちは「お年頃」の若い女性たちです。いつの時代もおしゃれには関心があるのですね。富岡製糸場の敷地内の発掘調査では、小皿状の容器―紅皿(化粧用の紅を塗りつけて使用した小皿)が数多く出土しています。ほかにも化粧瓶が多数見つかっており、多くの工女にとって毎日の身だしなみを整えるための必需品だったことがうかがえます。
富岡製糸場の設立に欠かせない、ポール・ブリュナ

写真の上段、左から2番目の白い服を着た男性がポール・ブリュナ(画像提供 富岡市)
続いて、富岡製糸場を語る上では欠かせない、ポール・ブリュナに関する見どころをお伝えします。ポール・ブリュナは、生糸製造過程に必要とされるエンジンをフランスから富岡製糸場へ導入した生糸技術者です。はるばるフランスからエンジン導入のために日本へ渡り、その他生糸製造の指導に当たりました。

家族とともに住み込みで指導するため、場内に一つの館(住居)が与えられました。住居は、レンガ積みでそこに木の手すりを組み合わせたで異国風な建物です。ブリュナはどんな暮らしをしていたのでしょうか。興味が湧いてきます。
ですが、現在は彼や家族が使用していた物や家具はほとんど残されていないそうです。 しかし、彼らが使用していたと思われる応接セットがあります。

ブリュナ家が使用していたと思われる、絹張りのソファとカウチです。金色に輝くような華やかさです。ポール本人や商談中のお客様が腰掛けている姿を想像すると、製糸場創業期にタイムスリップしたような気持ちになりますね。
この応接セットは、富岡製糸場の最後の経営者であった片倉製糸紡績株式会社が岡谷市へ寄贈したものです。普段は岡谷蚕糸博物館で保管されています。
※期間限定で展示されていたものになるので、現在は展示されていません。
隠れた見どころ!倉庫の壁に残るリアルな作業の跡

3つ目の見どころは、繭倉庫の内壁に残された“作業の痕跡”です。倉庫内を歩くと各所で木の壁に文字が書かれた張り紙やチョークのようなもので書かれた書き込みが残されています。気を付けていないと通り過ぎてしまうので、ふと立ち止まってよく観察してみてください。

壁に書かれた文字は掛け算、名前や住所、日付や柱番号など様々です。富岡製糸場の担当者によると、掛け算に関してはどのような目的のメモかはっきりとは、わかっていないとのことです。また、名前や住所に関しては、当時倉庫内で働いていた人が記念として、書いたものであろうと考えられています。

また、当時貼り付けられた貼り紙には、「イ印⑤以外積むこと」と書かれてあります。 操業時は壁のあちらこちらにこのようなメモが貼られていたのでしょう。現在のように活字印刷設備は整っていなかったため、現場での情報共有はすべて手書きだったのかもしれません。世界遺産の建物に直接書く姿を思うと、少し大胆にも感じますが、それだけ“現場の速度”が求められていたということなのでしょう。
当時の新聞紙が貼り付けられたものもそのまま壁に残されてあります。注意して、建物内を観察しながら見学してみてください。

さらに、白い塗り壁の下部には、床から20センチほどの位置に削られたような傷が多くあります。この傷は、繭が入った大きな袋を運ぶために使われた台車の角がぶつかった際にできたものだと考えられているようです。
こうした文字や傷一つひとつは、倉庫での慌ただしい作業の様子を物語っています。繭袋の積み下ろしに追われ、少しの時間も惜しんで働いていた作業員たちの姿が目に浮かぶようです。
まとめ

さて、歩いてみて回るだけでは気づけない、建物に刻まれた歴史やそこに関わった人々の痕跡を感じていただくことはできたでしょうか。建物に残されたものから当時働いていた人々の活気・当時の景気が確かに伝わってきます。
絹産業は日本経済に大きな変化を与えました。その発展の背景には、日本人の勤勉さはもちろん、海外との技術交流や取引の成功がありました。いま私たちが何気なく生糸や絹製品の美しさを楽しめるのも、そうした努力の積み重ねのおかげです。
絹織物や絹の小物に触れるときは、今日ここで見た風景や感じた思いを少しだけ思い出してみてください。生糸を紡いだ工女たち、倉庫で働いた人々、そして遠くフランスからやってきて製糸場づくりに尽力したポール・ブリュナ―彼らすべてが、この場所で確かに生きていました。
そしてきっと、皆さんの来場を心から喜んでいるはずです。
一般社団法人富岡市観光協会は、富岡製糸場及び妙義山を中心とした富岡市全般の観光資源を活用し、観光地域づくり法人(登録DMO)として、観光に関わる人たちと連携し「稼げる観光地域づくり」を推進して観光振興を図ることにより、交流人口の増加及び地域経済の発展に寄与することを目的とする。