世界遺産・絹産業の史跡を巡る、歴史ロマン旅へ出発!
2014年に世界遺産に登録された「富岡製糸場と絹産業遺産群」。群馬県から埼玉県を通る「上武絹の道」には、富岡製糸場、荒船風穴、田島弥平旧宅など関連遺産が点在しています。本記事では登録遺産や関連遺産の歴史と見どころを紹介。日本の絹の歴史に触れてみてください。
日本の絹産業をたどる旅
群馬県と埼玉県をまたぐエリアには、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」をはじめ、日本の絹産業をひもとく数々の遺産が残されています。
どんな歴史や文化があるのか、知っているようで知らない絹産業の歴史遺産と、その見どころをご紹介します。
日本の絹産業のあゆみ
Photo by Pixta
絹(シルク)は約5000年前、中国で誕生したといわれています。その後、シルクロードをわたり、ヨーロッパの貴族たちにも愛好されるようになりました。
欧米の国々との交流が一気に広がった明治時代、日本にとって絹の材料となる生糸は貴重な輸出資源でした。
上質な生糸を大量に、そして安定してつくるため、海外の技術や機器を導入した「富岡製糸場」がつくられました。最盛期には日本の輸出品の約80パーセントが生糸だったといわれるほど、絹産業は日本経済を支える一大産業に成長したのです。
やがて、日本の養蚕技術や製糸技術は海外に広まり、世界の絹産業に大きく影響を与えたといわれています。
絹産業の史跡をたずね、上武絹の道を行く
かつて上州、武州と呼ばれていた群馬県と埼玉県は、明治時代に絹の大産地として発展したエリアです。
なかでも「富岡製糸場」をはじめ、絹産業に関わる歴史遺産が多く残る7地域(群馬県の富岡市、伊勢崎市、藤岡市、下仁田町、埼玉県の深谷市、本庄市、熊谷市)を総称して、「上武絹の道」と呼んでいます。
絹産業の発展に情熱を傾けた人びとの足跡をたどりながら、日本のシルクロードを歩いてみましょう!
150年変わらぬ姿を残す世界遺産「富岡製糸場」(富岡市)
Photo by Pixta
「富岡製糸場」は生糸の生産工場として、1872年(明治5年)に操業を開始しました。当時、最先端の技術を結集してつくられたこの工場は、世界最大規模を誇ったといわれています。
2014年に世界遺産に登録される際、その歴史的意義とともに高く評価されたのが、工場の建物でした。敷地には、全長140メートルを超える繰糸所のほか、大量の繭を保管する倉庫、働く女性たちの宿舎や診療所などが設けられています。
驚くことに、そのほとんどが150年の時を経てもなお、大きな損傷もなく残っているのです。
Picture courtesy of Tomioka city
主な見どころは、木骨煉瓦造(※1) で建設された繰糸所。中央に柱のない大空間には1966年ごろに設置された日本製の自動繰糸機が並び、圧巻です!
創業当時はフランスから輸入された300釜の繰糸器が並んでいました。
※1:木骨煉瓦造(もっこつれんがづくり)……柱や梁を木材で造り、骨組みの間に煉瓦を積み上げる工法のこと。
Picture courtesy of Tomioka city
国宝に指定されている「西置繭所(にしおきまゆじょ)」は2020年に保存修理を終え、グランドオープンしました。鉄骨とガラスによる「ハウス・イン・ハウス(入れ子構造)」を導入して、ギャラリーや多目的ホールが設けられています。
天然の冷蔵装置「荒船風穴」(下仁田町)
Picture courtesy of Shimonita town
伝統的な日本の養蚕は、年に一度、蚕が孵化するタイミングに合わせて行われていました。しかし、生糸の生産量を増やすには、年に一度では足りません。
そこで考え出されたのが、「荒船風穴(あらふねふうけつ)」の冷気を利用した蚕種(蚕の卵)の冷蔵保存です。今のように電気式の冷蔵庫がなかった時代、ものを冷やして保存するのは大変なことでした。
真夏でも冷たい冷気が流れ込む風穴は、蚕種を保存し、孵化を調整するのに最適の環境だったのです。このおかげで年に2回、3回と複数回、養蚕を行うことが可能になりました。
緑に囲まれた荒船風穴は、いまも当時と変わらない環境が守られています(※12月~3月末まで冬季閉鎖)。
近代養蚕はじまりの地「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)
Photo by Pixta
蚕の卵を育てる蚕種農家に生まれた田島弥平(たじまやへい)は、「蚕の安定した飼育には、通風のよい飼育環境づくりが欠かせない」と発見します。
のちに「清涼育」と呼ばれる弥平の飼育方法と、通風に特化した「島村式蚕室」は、その後の養蚕の考え方の基礎となりました。
当時の蚕室の様子をいまに伝える「田島弥平旧宅」は、「富岡製糸場」とともに世界遺産に登録されました。
個人宅のため、見学は敷地の庭と桑場と呼ばれる桑の貯蔵場所のみ。毎月第3日曜日に限り、母屋1Fの「上段の間」が公開されています(※桑場は3月22日まで公開中止。最新情報は公式HPをご確認ください)。
養蚕技術者の育成機関「高山社跡」(藤岡市)
Picture courtesy of Fujioka city
高山社は1884年(明治17年)に設立された、養蚕業に関する総合的な研究、教育施設です。
社長の高山長五郎(たかやまちょうごろう)は、蚕のよりよい育成方法の研究を行った人物です。長五郎は「清温育」という蚕の飼育方法を発案しました。
清温育は、田島弥平によって確立された「清涼育」と、蚕を暖めることを重視した「温暖育」の、両方の利点をあわせもつものでした。
長五郎は養蚕技術を学びたい人々を広く受け入れ、養蚕業の発展に貢献しました。ちなみに高山社では学費、宿泊費、食費はすべて免除。貧しい農家出身でも学べる環境をつくりました。
Photo by Pixta
「高山社跡」には当時の蚕室や桑貯蔵庫などが残されており、こちらも世界遺産に登録されています。解説員のガイドを聞きながら、じっくり見学するのがオススメです。
蚕のためにつくられた「競進社模範蚕室」(本庄市)
Photo by Pixta
「清温育」を確立した高山長五郎の弟、木村九蔵(きむらくぞう)もまた、養蚕業の発展に大きく貢献したひとりです。
九蔵の考えた「一派温暖育(いっぱおんだんいく)」という飼育法は、炭火の火力で蚕室の湿気をとりのぞき、蚕の病気を予防するというもの。
この飼育法を実現するには、換気の効果を最大限に発揮できる特別な蚕室を設計する必要がありました。そして完成したのが「競進社模範蚕室(きょうしんしゃもはんさんしつ)」です。
競進社模範蚕室の天井 Photo by Pixta
屋根には4つの高窓が設けられ、床下にも吸気口をつくっています。各部屋には温度や湿度を調整するための火鉢が置かれました。まさに蚕のための家です。
競進社模範蚕室は、高山社跡から車で約20分ほどの道のり。あわせて見学して、その違いを見比べてみてはいかがでしょう。
アンドロイドが迎える「渋沢栄一記念館」(深谷市)
Picture courtesy of Fukaya city
近代日本経済の父といわれる渋沢栄一は、2024年に刷新される1万円紙幣の顔としても知られています。
91年にわたるその生涯のなかで、渋沢は日本の近代化に貢献するさまざまな業績を残しました。そのひとつが「富岡製糸場」の設立です。
深谷市の農家に生まれ、養蚕にも詳しかった渋沢は、なんと30歳で「富岡製糸場」の設置主任につき、工場設立のために奔走しました。
「渋沢栄一記念館」には、そんな渋沢の人生を振り返る資料や写真などが展示されています。
Picture courtesy of Fukaya city
見どころは、生誕180年の節目にあたる2020年に完成した「渋沢栄一アンドロイド」です。リアリティある見た目もさることながら、実際に本人が語った経済と道徳に関する講義をすることに驚かされます。
アンドロイドによる講義は1日8回、1回約30分です(日本語のみ)。
生糸のつくりかたを学ぶ「片倉シルク記念館」(熊谷市)
Picture courtesy of Katakura Industries Co., Ltd.
かつて日本中のあらゆる地域で行われていた養蚕も、いまではめずらしいものになってしまいました。
「富岡製糸場」の民間オーナーを務めていた片倉工業株式会社が創設した「片倉シルク記念館」では、貴重な製糸機器や養蚕の道具を間近に見ながら、繭から生糸がつくられる過程を学ぶことができます。
Picture courtesy of Katakura Industries Co., Ltd.
実際に使われていた繭倉庫が展示空間となっており、展示パネルや資料からは、当時の工場の様子や、そこで働く人々の生活も知ることができます。
かつて日本を支えた絹産業の歴史と、たずさわった人々に思いを馳せながら、立ち寄ってみてはいかがでしょう。
絹の歴史に触れよう
日本の絹産業の歴史をひもとく旅はいかがでしたか?
上武絹の道に残された歴史遺産には、日本の近代化を目指した人々の面影がいまも色濃く残っているようです。ぜひ、知っているようで知らない、絹の歴史にふれてみてください!
絹の道周辺の神社仏閣、ミュージアムなどの観光スポットについて詳しくは以下の記事をご覧ください。
Written by Kumiko Ishigaki
Sponsored by JOBU KINUNOMICHI
Main image by Pixta