福島第一原発は今?現場を歩いてわかった5つのこと
敷地内はまるで工事現場? マスクなしで見学できるって本当? 2011年に事故が起きた福島第一原発は今、どうなっているのか。至近距離で見る原発構内の現場から、周辺の地域住民の声まで。福島第一原発周辺の現在を、レポーター2人が実際に歩いて確かめてきました。
ここは、福島第一原発
「僕たちが今、どこにいるかわかりますか?」
ここは、福島第一原子力発電所。あの事故が、起きた場所です。
福島は今どうなっているの?
2011年3月11日。東北地方の太平洋沖を震源地とする大地震「東北地方太平洋沖地震(以下、東日本大震災)」が発生。福島の沿岸部にある東京電力福島第一原子力発電所(以下、福島第一原発)では、放射性物質が放出される事故が起きました。
テレビや新聞、インターネットなどには情報があふれ、放射線という目に見えない脅威に対して、不確かな情報も飛び交いました。どの情報を信じていいのか、わからない状況でした。
あの事故から、8年が経とうとしています。福島は、そして福島第一原発は今、どうなっているのでしょうか。
2人のレポーターが見た、福島第一原発
Coleさん(左)とFrankさん(右)
やってきたのは、アメリカ人のColeさんと、オランダ人のFrankさん。
2人とも東京在住で、Coleさんは会社員、Frankさんは学生です。福島のことは報道で知っていますが、原発や放射線について専門的に勉強をしているわけではありません。実際に、現場に来るのも初めて。
漠然とした不安を解消するために
2人には、いくつかの疑問や不安がありました。「福島第一原発は、本当に入って大丈夫なの?」「事故があった現場は、どうなっている?」「これから、どうなるのだろう?」。今どうなっているのか、これからどうなっていくのかわからない、漠然とした不安。
福島の今について、知りたいことがたくさんある。さっそく、2人と一緒に向かいましょう。
※:福島第一原発構内は取材のため、特別に許可を得て見学しています。
※:本記事は、2019年1月15、16日の取材日時点での情報をもとに記述しています。
目次:
Part1: 福島第一原発は今?現場を歩いてわかった5つのこと
Part2:福島第一原発の周辺地域は、今どうなっている?
1.福島第一原発は、本当に入っても大丈夫?
福島県は日本の東北地方に位置します。面積も広く、日本の都道府県の中では3番目の広さ。
福島第一原発は、福島県の沿岸部にあります。
避難指示区域は、県全体の2.7%
福島県全体と現在の避難指示区域。事故当時は原発から20キロメートル圏内に避難指示が出されたが、現在は一部地域を除いて解除されている
福島第一原発周辺には、現在も避難指示が出されている区域がありますが、徐々に解除されています。
福島県全体の面積は、13,783平方キロメートル。一方、現在の避難指示区域の面積は約370平方キロメートル。福島県全体の面積と比べると、2.7%に留まります(2017年4月時点)。
故郷に戻る人々も増えている
浪江町にある仮設商店街「まち・なみ・まるしぇ」。食堂や雑貨店が並び、町民の憩いの場となっている
福島県内外へ避難した人は、ピーク時(2012年5月)には16万人を超えましたが、今、県内外に避難している人の数は約45,000人(2018年7月現在)。故郷に戻る人々も増えてきました。
気になる放射線量も、減少傾向にあります。原子力規制委員会の資料によると、福島第一原発から80キロメートル以内の空間線量率は、2011年と比べて、約74%減少しました(※1)。
今回の取材では、2016年に避難指示が解除された南相馬市・小高区、同じく2017年に解除された浪江町を訪れて、帰還した住民の方に話を伺いました。後編もあわせてご覧ください。
※1:2017年9月時点。地表面から高さ1メートルの空間線量率平均。
作業車が行き交う周辺道路
富岡町
さて、一行はバスに乗り込み、福島第一原発へと向かいます。
福島第一原発の南側にある富岡町(とみおかまち)から、福島第一原発のある大熊町(おおくままち)へと入ります。現在、富岡町の一部、大熊町のほぼ全域に避難指示が出されています。
写真は、富岡町の中でも避難指示が解除されたエリアにある、富岡川。山側から豊かな水が流れ、秋になると鮭が上ってくるそうです。
福島第一原発のある大熊町(おおくままち)
途中、廃炉作業に関係する車や周辺地域で除染作業を行なっている車など、何台もの大型トラックとすれ違いました。
「福島第一原発の近くはまったく人がいないかと思っていましたが、こんなに作業車が行き交っているんですね」(Coleさん)
国道を曲がって、福島第一原発の構内へと入ります。
まずは体内の放射性物質の量をチェック
福島第一原発に、着きました。大型休憩所という建物の窓からは、構内が見渡せます。
近くで見ると、どうなっているのだろう? はやる気持ちを抑えつつ、まずは大型休憩所で、検査を受けます。
ホールボディカウンターと呼ばれる機械で、体内に放射性物質がどのぐらい存在しているかを計測。見学前と後で、数値に大幅な差が出ないかをチェックします。
このホールボディカウンターでは、1分間に数えた放射線(γ線)の数を測定します。構内入域前と後で、値が1,500cpm(counts per minute)以上増えていれば、放射性物質を体内に取り込んだ可能性があります。
今回の取材では、Coleさんは見学前が907cpm、見学後が954cpm。Frankさんは、見学前が1,488cpm、見学後が1,339cpmという値となりました。値に個人差はあるものの、見学の前後で大きな差は出ませんでした。
X線検査の1/7以下
しかし、本当に構内の放射線量は問題ない数値なのでしょうか?
実際に福島第一原発構内の値を見てみましょう。これは今回、原子炉建屋・4号機の前で計測した放射線量。0.008mSv/h(※2)という値でした。
実はこの値、胸のX線検査(1回)で受ける放射線量の、1/7以下。通常、胸のX線検査を1回受けると、およそ0.06mSv程度です。事故現場近くのこの場所に1時間滞在して0.008mSvという、非常に低い線量です。
参考までに、一般的な状況下で浴びる放射線の量と比較してみましょう。
※2:写真はμSv/hの値ですが、本記事中ではわかりやすいよう、mSv/hに統一して記述します。1mSv/h=1,000μSv/h。
さまざまな放射線量の比較 | 単位(mSv) |
1年間で自然に受ける放射線量(世界平均) | 2.4 |
東京〜NY間を航空機で往復 | 0.11〜0.16 |
胸のX線検査(1回) | 0.06 |
今回の福島第一原発視察(5時間程度) | 0.04 |
県庁所在地のある福島駅に1時間滞在(※3) | 0.0002 |
ニューヨークに1時間滞在(※4) | 0.00005 |
参考:https://www.env.go.jp/chemi/rhm/kisoshiryo/attach/201510mat1s-01-6.pdf
今回の取材では、福島第一原発の構内を5時間ほど見学して、最終的な放射線量の積算は0.04mSvでした。これでも、胸のX線検査1回の2/3の値です。
※3:2019年1月23日、福島駅近くの「コラッセひろば」で計測。小数点5位以下を四捨五入。参考:http://fukushima-radioactivity.jp/pc/
※4:2018年1月23日計測の値から、小数点6位以下を四捨五入。参考:https://www.jnto.go.jp/eq/eng/04_recovery.htm
見学は、軽装でOK?
それでは、構内の見学のためにいくつかの装備を身につけます。帽子、マスク、靴下、手袋、ベストなどいくつかの装備が貸し出され、それを自分の普段着の上から身につけていきます。
ベストには、ポケット線量計(写真右下)。見学中にどれだけの放射線を浴びたかを計測するためです。
え、これだけ? と思うかもしれません。
福島第一原発構内の放射線量は年々低下し、また除染も進んでいるため、見学は軽装でOKなのです(2019年1月現在)。
マスクなしでも歩ける
現在は、構内の96%のエリアで、全面マスクなどの防護服を着用せずに作業できるようになりました。
そのため、場所によってはご覧のようにマスクなしで歩くことも可能。
福島第一原発の構内図
2人が歩いているのは、大型休憩所前の「さくら通り」。原子炉建屋から1,500メートルほど離れた通りです。
2.福島第一原発では、何が起きたの?
2011年3月に起きたこと
福島第一原発はそもそも、東京電力が運営する原子力発電所。ここで発電した電力を、約200キロメートル以上離れた関東に届けていました。
しかし、2011年3月11日に起きた東日本大震災で、福島第一原発には高さ約15メートルの津波が流れ込みました。
2011年3月15日撮影、左から1〜4号機。Picture courtesy of 東京電力
津波によって、海抜10メートルの場所にある4つの建物「原子炉建屋」(1〜4号機)は、すべての交流電源を喪失。
その結果冷却機能が失われ、高温状態となった1〜3号機の原子炉内部では、核燃料が溶け落ちる現象「メルトダウン」が発生しました(※5)。
※5:定期検査中だった4号機は、メルトダウンはしていません。
2011年3月15日撮影。水素爆発した3号機(左)と4号機(右)。Picture courtesy of 東京電力
さらに1、3、4号機では水素爆発が起こりました。メルトダウン、水素爆発など一連の事故によって、大気中や土壌、海などに放射性物質が放出される事態となりました。
世界中に衝撃を与えたこのような写真を記憶している方もいるかもしれません。その現場は今、どうなっているのでしょうか。
東京電力で広報を担当する阿部(あべ)さん、木元(きもと)さんに案内してもらいました。
3.事故現場は今、どうなっている?
向かったのは、あの場所。メルトダウンと水素爆発が起きた、原子炉建屋です。
福島第一原発の敷地は広いため、バスに乗って移動します。
整然とした福島第一原発構内
Coleさんは、窓から見える景色に驚きました。「想像したより、構内がきれいですね。整備されています」
Frankさんも頷きます。「まるでよくある工事現場、工業地帯のようです」
ただ、作業服に身を包んだ作業員の姿が、ここが福島第一原発の現場であることを思い起こさせます。
原子炉建屋まで、100メートル
左から1号機、2号機
バスに乗って5分ほど、高台に到着しました。目の前に並ぶ建物が、原子炉建屋です。
左が2号機、ドーム状のカバーがかかる建物が3号機、その奥に4号機
目の前に見える建屋までは、100メートルほど。「建物が損傷している部分がありますね。やはりここであの事故が起きたのだと、改めて感じます」(Frankさん)
ここで、東京電力の阿部さんが言いました。「もう少し、近くへ行ってみましょう」。Coleさん、Frankさんも驚きます。「そんなに近くまで行けるんですか?」
原子炉建屋まで、数メートル
背後にあるのは3号機
やってきたのは、2号機と3号機の間の通路。原子炉建屋までは数メートルの距離です。建屋上部には、水素爆発時の跡。下部には、津波で流れてきた瓦礫による傷が生々しく残されています。
でもこんなに近くまで来て、大丈夫なのでしょうか。
説明する阿部さん(右)。背後にあるのは2号機
「この装備でここを歩けるようになったのは、2018年5月以降です」と阿部さんが説明します。
「地面に鉄板を置いて粉塵の舞い上がりを防いだり、瓦礫の撤去が進むことで線量が低くなったためです。継続してダストの管理も行っています。ここでいう“ダスト”とは、空気中の放射性物質を含んだ塵(ちり)のこと。その放射能を常時監視しています」
普通の作業着で歩ける、作業できる範囲も、年々広がっているのです。
4.今、福島第一原発では何をしている?
では、福島第一原発では今、何をしているのでしょうか?
福島第一原発はすでに廃炉となることが決定されており、現在の作業は、大きくわけて以下の2つです。
①原子炉建屋からの燃料取り出し
②汚染水対策
①原子炉建屋からの燃料取り出し
クレーンを使って瓦礫を撤去する1号機
原子炉建屋内にある使用済みの燃料は、もう使われることがありません。廃炉に向けて、その燃料を取り出すための作業が進められています。
メルトダウンが発生した1、2、3号機は、まだ建屋内の線量が高いため、それぞれ異なるフェーズで慎重に作業が進められています。
1号機はまだ撤去するべき瓦礫がたまっており、クレーンを遠隔操作しながら、少しずつ撤去を進めています。2号機は水素爆発は発生しませんでしたが、建屋内に放射性物質が留まっており、内部の調査がはじまりました。
事故当時とドーム屋根つり上げ完了後の3号機。左:2011年3月21日撮影 右:2018年2月21日撮影。Picture courtesy of 東京電力
3号機では、瓦礫の撤去や除染などが終わり、ドーム屋根(写真右)など、燃料を取り出すための設備の設置作業が進められています。
2019年1月現在、廃炉に向けた作業がもっとも進んでいるのは、4号機(写真)。
4号機は水素爆発が起きましたが、地震当日は定期点検中で稼働していなかったため、メルトダウンが起きませんでした。そのため作業も着手しやすかったのです。
2014年に燃料取り出しが終わり、隣にある共用プールへと移され、安定的に管理されています。4号機の作業は完了し、安全な状態にあります。
なお、1〜3号機では、溶け落ちた燃料である燃料デブリも取り出す必要がありますが、現在、その取り出しに向け、ロボット等を用いて内部調査を行なっています。
2017年7月に実施した、3号機の内部調査の動画はこちらから見ることができます。また、2019年2月には2号機で堆積物への接触調査が行われました。
二本指のような機械(左)で小石状の堆積物をつまんで持ち上げている様子(右)。右画像は2019年2月、2号機にて撮影。Picture courtesy of 東芝エネルギーシステムズ(左)、東京電力(右)
②汚染水対策
空間の放射線量を下げたり、雨水を地下にしみ込ませないため、構内の地面はアスファルト等で覆われている
建屋の燃料取り出しと並行して進められているのが、汚染水対策。
2011年の事故では、放射性物質が空気中だけでなく、海中や土壌にも放出されました。
取材の時点(2019年1月)で、福島第一原発周辺の海水中の放射性物質はじゅうぶん低い濃度となっていますが、さらにリスクを下げるため、さまざまな施策がなされています。
建屋を囲む“氷の壁”
原子炉建屋の周りの地下を、取り囲む配管。この地下には、深さ30メートルまで氷の壁が作られています。
原子炉建屋の地下は、現在も放射性物質によって汚染されています。そのため建屋の周囲1.5キロメートルをぐるりと氷の壁で囲み、外から新たな水が入るのを防いでいるのです。
Picture courtesy of 東京電力
また、海側には写真のように鋼鉄製の壁を設置し、汚れた地下水を海へ漏らさないようにしています。
多核種除去設備(ALPS)
「でも原子炉建屋の地下では、汚れた水が発生しますよね。それらの水はどうしているんですか?」(Coleさん)
「構内で生じた汚染水は、多核種除去設備(ALPS)など、構内にある複数の施設で浄化処理されます。セシウムやストロンチウムなど、人体への影響が強い放射性物質はここでしっかり取り除かれます」(東京電力・阿部さん)
タンクに入った水はどこへ行く?
処理済みの水が入ったタンク
トリチウムという放射性物質のみ、現在の技術では取り除くことができないため、トリチウム以外を概ね取り除いた水を、構内に設置したタンクに入れて貯蔵しています。
構内のタンク
「タンクの水は、これからどうするんですか?」(Frankさん)
福島第一原発構内には、2019年1月現在で約940個のタンク、合計110万トンの水が置かれています。しかし、敷地の状況等を踏まえた現在のタンク建設計画では、137万トンまでの計画となっています。
「この水をどのように処理していくか、国や地元の皆さんと議論を続けています」(東京電力:木元さん)
福島第一原発で働く人たち
燃料取り出し、汚染水対策。重要なミッションを抱えた福島第一原発では、現在1日あたり4,000〜5,000人の作業員が働いています。
「これも驚きです。原発構内はほとんどが事故当時のまま放置されているか、非常に少人数で作業していると思っていました。こんなに人が多いんですね」(Coleさん)
事故から8年経ち、職場環境も飛躍的に改善されています。
たとえば、食事。2015年、敷地内に食堂が誕生し、あたたかい食事がとれるようになりました。それまでは外から持ち込むことしかできず、もちろん冷たい食事でした。
「同じ釜の飯をみんなで囲む、というのは日本人にとって、チームワークを進めていく上ですごく大事なことなんです」
事故当時から現場を知る阿部さんは感慨深く話します。
福島第一原発を「なんとかしたい」
今回案内してくれた東京電力の木元さん(写真右)も、現場で働いていた1人。彼は事故当時、福島第一原発から約12キロメートル離れた、福島第二原発にいました。震災後は住民や自治体に向けて説明を行い、現在は、メディア向けの記者会見などで対応をしています。
「原子力を信じて働いてきた中で、こうした事故を起こしてしまったのは、個人的にも非常にショックでした。今はなんとかしなければならないという思いが強い。使命感を持って、ここに立っています」
同じく東京電力の阿部さんは、「我々が起こしてしまった事故は、大変恥ずかしいことです」と正直な思いを口にします。
「自分たちが犯したミス、失敗を赤裸々にお話ししなければなりません。繰り返し、何度も。でもそれが我々が今できることですし、やらねばならないという気持ちがあります」
5.福島第一原発は、これからどうなる?
福島第一原発の廃炉には、これから30〜40年かかる見通しです。
瓦礫の撤去、燃料の取り出し、溶け落ちた燃料デブリの取り出し、これからも続く汚染水の処理、タンクの中の水をどうするかーー。課題はいまだ山のように残されています。
そんな廃炉への取り組みがどれほど進んでいるか、2011年の事故で何が起きたのか、福島第一原発について知ることのできる施設があります。
Picture courtesy of 東京電力
福島第一原発から10キロほど南にある、富岡町の「東京電力廃炉資料館」。2018年にオープンし、資料映像や写真、展示によって事故の全容や廃炉の現状がわかるようになっています。
ここまで来るのが難しい方は、東京電力のHPや、Web上で公開されている福島第一原発構内のバーチャルツアーを見ると、廃炉の現状や福島第一原発構内の様子を知ることができます。
福島のことを、もっと知りたい
福島第一原発での見学を終えて、Frankさんは言いました。「まず、あんなに事故現場の近くまで行ける、ということに驚きました。実際に構内を歩いてみると、想像していたよりコントロールされている印象を受けました」
Coleさんは、「私も、福島第一原発はきちんとコントロールされていると感じました。ただ、汚染水の処理など不確定な部分や、また相手は放射線なので、人間の力では限界がある部分もあります。しかしその中でも働く人はプロ意識を持ち、できるだけのことをしている印象を受けました」
また、Coleさんは付け加えました。「放射線は、目に見えません。目に見えないものは、理解が難しく、不安になる。しかし、知識を得て、実際に現場を見ることで、怖いという気持ちはなくなってきます」
見えないものには恐怖がある。でもその正体がわかれば、恐れはほんの少しずつ、減ってくる。
もう少し、福島への解像度を上げたい。福島第一原発の見学を終えた2人は、別の場所へと向かいました。
福島第一原発の周辺地域は、今どうなっている?
福島の今を、もっと知りたい。
ColeさんとFrankさんは、福島第一原発を離れ、周辺地域にやって来ました。
①:豊嶋歯科医院 ②:小高ワーカーズベース
この地図のように、福島第一原発の周辺には、今も避難指示が出されている地域があります。
今回は、福島第一原発から20キロメートル圏内にある2つの場所「豊嶋歯科医院」「小高ワーカーズベース」を訪ねました。どちらも事故後に避難指示が出されましたが解除され、今は住むことができるエリアにあります。
目次
1.浪江町:7年半ぶりに再開、悩みまで聞く歯医者さん
浪江町の沿岸部付近。集落があったが津波の被害を受け、現在は更地に
まず最初にやってきたのは、浪江町(なみえまち)。
町のもっとも近い場所で、福島第一原発から直線距離で約4キロメートル。事故のあと、町内全域に避難指示が出されました。
町の中心部で避難指示が解除されたのは、2017年3月。現在、900人弱の住民が戻ってきています。
浪江町で雑貨店を営む男性は、「今不足しているのは、病院。だからお医者さんが戻ってきて、すごく嬉しいんですよ」と思いを口にします。
そのうちの1つが、豊嶋歯科医院です。
着の身着のまま、家を飛び出した
豊嶋歯科医院・院長の豊嶋宏(とよしま ひろし)先生。
こちらの医院は、福島第一原発から約9キロメートルの距離にあります。浪江町で70年続き、地元の人に親しまれてきた歯科医院でしたが、2011年3月に避難を余儀なくされました。
「大震災があった翌日、『10キロ圏外に避難してください』とアナウンスがありました。すぐ戻れるのかな、と思ったのですが……」
荷物をまとめる余裕もないまま、家を飛び出しました。避難指示は、それから6年間続きました。
7年半ぶりに再開できた
再開した豊嶋歯科医院
その間、知り合いのいる北海道で歯科医院を続けていた豊嶋さん。ようやく2017年に避難指示が解除されると、浪江町から医院の再開を打診されました。「嬉しかったですね。また浪江で再開できるんだ、と」
2018年8月、豊嶋歯科医院は7年半ぶりに浪江町で再開しました。「患者さんは、以前と変わりましたか?」とColeさん。
「昔からの常連さんも、新しい患者さんも来てくれています。『再開してよかった』『近くに歯医者さんがあるといいね』と言われたらやっぱり嬉しいですよ」
健康に不安があればいつでも来られる。そんな場所がまたできました。「当たり前のようですが、歩いて来られる場所に、お医者さんがあるのは大切なんです」(豊嶋さん)
悩みまで聞く歯医者さん
震災前に1日30〜40人来ていた患者は、現在10名程度。でも、そのぶん1人1人に時間をかけられるようになったといいます。「30分、雑談だけして帰る人もいますよ」と豊嶋さんは笑います。
「でも、それでいいんです。歯の痛みだけでなく、生活の悩みや不安……患者さんは、話をすることで安心されます。治療よりも、まず患者さんと対面して、話すことが大切だと思っています」
心をも癒してくれる豊嶋歯科医院。浪江町には徐々に、人のぬくもりが感じられるコミュニティが生まれてきています。
豊嶋さんは、これから始まる町の復興についてこう語ります。「必要なのは、これまでの町を復活させるのではなく、新しいまちづくり。たとえば防災のモデルとなる町など、災害にあった浪江のような町は、まったく違う道筋を作っていかないといけないと思います」
2.南相馬市小高区:原発20キロ圏内の“フロンティア”
小高ワーカーズベース
被災地での、新しいまちづくり。そのヒントが、同じく原発から20キロ圏内、南相馬市・小高区にありました。
小高区も浪江町と同じく避難指示が出されましたが、2016年に解除。今、この町に新たな動きを生み出しているのが、「小高ワーカーズベース(Odaka Worker's Base)」です。
中に入ると、広々とした空間の中央に、大きな階段。
実はここ、階段に座りながら仕事ができる、コワーキングスペースなのです。この地域で新しいサービスの立ち上げなどを目指す起業家を呼び込むために、新たに整備されました。
小高で生まれた新しいコミュニティ
話を聞いたのは、小高ワーカーズベース代表の和田智行(わだ ともゆき)さん。小高区の出身です。避難指示後、一時避難をしていましたが、この町をなんとかしたいと小高に戻り、起業しました。
「以前と比べれば人やお店も少なく、小高には何もないように思えるかもしれません。でも、それは裏を返せば、ブルーオーシャン。ビジネスの可能性がたくさんあり、これから何でも始められる、いわば、日本で唯一のフロンティアなんです」。語り口は柔らかですが、その言葉は力に満ちています。
和田さんは、2014年に「小高ワーカーズベース」を立ち上げ、コワーキングスペースだけでなく、食堂や仮設スーパーなど、町に必要なものを作りました。そこからは住民の雇用だけでなく、新しいコミュニティも生まれていきました。
小高ワーカーズベースが行なっている事業の1つが、同じ建物内にある「HARIOランプワークファクトリー小高」。ここでは、ガラスアクセサリーの生産・販売を行なっています。
働いているのは、地元の女性たち。従業員は4名、全員が未経験から始めました。
外からは、ガラス越しに製作風景が見られます。
「高齢化が進んで、道を歩いても人が少ない。でもそんな中で、仕事をする女性たちの姿が見える。すると町の雰囲気も変わってくると思うんです」と和田さん。実際、外を歩く町の人との交流も生まれているそうです。
ここから、新しい町が始まる
小高区では、2018年12月に新しいスーパー「小高ストア」もオープン
避難指示が解除された今、小高区には、約3,100人が戻ってきています。
「今、小高区に住んでいる人は、自主的に帰ることを選択した人たち。嫌々住んでいる人はいません」(和田さん)
それに加えて、和田さんの取り組みやこの地域に魅力を感じる人が、全国から集まってきています。現在は「小高区でビジネスを立ち上げたい」と希望する起業家の受け入れ体制を整えているところだそう。
和田さんはこう話を結びました。
「大規模に何かを始める必要はありません。みんなが連携する小さなコミュニティをたくさん作り、活性化させる。すると、そこから新しい仕事が生まれる。その流れが続けば、新しい町のカラーができていく、そう思っています」
誰もいなくなった場所に人が戻り、新しいビジネスの形、コミュニティが生まれようとしています。
1000年の時を超えて
福島の旅を終えたColeさんとFrankさんは最後に、小高区にある寺を訪ねました。
大悲山 慈徳寺(だいひさん じとくじ)。ここには、1000年前からこの地にあるという石の仏像、「大悲山(だいひさん)の石仏」があります。
幅15メートル、高さ5.5メートルの岩の壁に掘られた、8体の仏像。誰が、なんのために作ったのか、詳しいことはわかっていません。
わかっているのは、1000年もの昔から、この地に住む人々の信仰を集めていたということ。
石仏の近くには、高さ45メートルを超える巨大な杉。この木もまた、樹齢は1000年に及ぶと推定されています。
石仏と巨大杉、いずれもはるか昔から、この地の信仰を集め、人々を見守り続けてきました。もちろん、福島で震災や原発事故が起きたあとも。
福島第一原発、そしてその周囲の町。
歩くことで、いろんなものが見えてきました。見えることで、もっと多くを知りたくなりました。
帰り際の夕日を見て、Coleさんは言いました。
「福島がこんなに美しいところとは知らなかった。今回の旅では、福島の自然の美しさに深く感銘を受けました。農村部にある、自分の故郷を思い出します」
福島は、自分の故郷のよう。ここに来る前の漠然とした不安や怖れは、いつの間にかなくなっていました。
美しいこの風景もまた、長い年月の中で形づくられ、人々の営みを見守り続けてきたものです。変わらないものと変わるものが共存し、混ざり合い、福島から今、新しい物語が始まろうとしています。
Photos by Shiho Kito
In cooperation with 東京電力、豊嶋歯科医院、小高ワーカーズベース
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